出版業界、ニコニコ動画などに思うこと

id:minesweeper96さんが気になることを書いていたので…。編集(フィルタ)やらに関わる話をぽつりと書いてみたいと思います。ちなみに私はいろいろと素人。


出版社が沈没する・しないという話が出てきていますね。たとえば以下のページなど。

たけくまメモ 「紙の本」の将来

こういう話を読んでいると、いろいろと頭の中を考えが巡るのですが、自分は頭があまり良くない方なので、まとめ的な文章を書いておきたいと思います。

書きたいと思っていること

この文章で、私が書こうと考えていることは一文にすると以下のとおりです。

「コンテンツ」、「媒体」、「フィルタ」は区別をして議論した方が良く、特に媒体とフィルタは混同しない方が良い。

以降でいろいろと雑感を書いていきたいと思います。


コンテンツ、媒体、フィルタについて

ここでは、先ほどの「コンテンツ」、「媒体」、「フィルタ」について書きます。多くの人はこれについては良くわかっていると思うので、あまりだらだら書きませんが。


「コンテンツ」は、そのままずばり、小説やら音楽自体の中身のことですね。


「媒体」とは、コンテンツを収めるための入れ物のことですよね。小説であれば本と言う紙媒体、音楽であればCD、などなど。最近はこれを味噌糞に「インターネット」というある種の媒体が吸収しつつ有りますが…。


「フィルタ」とは、コンテンツを評価・選別する存在をさしています。従来の出版社の形態で言えば「編集者」などを指しますかね。ネット界隈で見るならば小飼弾氏。ただ小飼弾氏は、ユーザ見えに優良と思えるコンテンツの選別をしているのは確かだが、コンテンツの中身自体をブラッシュアップすると言う機能を有していない。そういう意味では小飼弾氏は従来の編集者とは違うとも言えます。

現状のいろいろな会社などについて

現状の出版社などについて

今存在する、集英社講談社小学館などの出版社は、媒体とフィルタの2つの役目を担っていますね。

  • 媒体としての所感
    • 既存出版社の主力である「紙媒体」への脅威として、Kindleなどの黒船「電子媒体」が見え始めている。また、ケータイ小説総合サイト魔法の図書館などのケータイ小説の電子媒体は台頭してきている。ただし、紙媒体に対する電子媒体の目に見える影響はまだ日本ではさほど無さそう。
  • フィルタとしての所感
    • 小説などについては、「コンテンツ」への批評はあるが「フィルタ」機能自体への批判はあまり見受けない。ただし、例えば漫画において「週刊少年ジャンプ」の人気投票による打ち切り決定といった、フィルタ機能への批判は見受けられる。「週刊新潮」などの情報系雑誌についての批判はあるが、これは情報の一時ソースを偏向して発信してるのではないかという、新聞社における「フィルタ」の議論の方に近い(新聞社の「フィルタとしての所感」を参照)。
現状の新聞社について

現存の新聞社である読売新聞社朝日新聞社なども、媒体とフィルタの2つの役目を担っています。

  • 媒体としての所感
    • 主力の「紙媒体」は、インターネットと言う「電子媒体」の影響を受け始めている。危機感からか、産経新聞は電子媒体に手を出し始めているが、利益を出すのはまだ厳しそう。
  • フィルタとしての所感
    • マスゴミと揶揄されるくらい、その機能への批判は激しい。理由は、例えば政治に関して言えば、一般の人でも一時ソースである国会や内閣などの情報に(特に)ネットによりアクセスしやすくなり、新聞社を代表とする報道各社の情報のフィルタリング手法(とその偏向ぶり)が露呈してきたためと思われる。
テレビ局について

…、なんだか長くなりそうなので割愛。

雑感

今、もしくはこれからの近い状況を妄想するとすれば、ネットという名の「媒体」にフリーの音楽や小説、またそれらの作者の情報などの「コンテンツ」が爆発的に多くなってきており、コンテンツの有力な「フィルタリング」手段が不足する、もしくはすでにしてきている。今までのフィルタリングの例としては、出版社におけるフィルタリング機能があげられる。出版社の編集者が、ダメ(と思われる)な小説を世の中の本屋さんに出さないで、良い(と思われる)小説を世の中に出していくことで、コンテンツ量(本の種類)を爆発化させないようにしてきた、ということでしょうか。しかし、今はコンテンツの作成能力の乏しい人(つまり能力のない人)でも、ネットを通じてコンテンツを世の中に出せてしまう。よって、ネットは玉石混在となってしまっている。


故にユーザにおいては、ネットでは優れた一次コンテンツ(情報などのソース)を握るよりも、いかに優れたフィルタリング手段を得るかが重要になってくる。これはたとえば、読者が自分の好みの小説家を一人追い続けるよりも、自分のフィーリングと合致する小説評論家を追うほうが、結果として読者としては効率がよい。もし自分の好きだった小説家が筆を折ったとしても、自分のフィーリングと合う小説評論家の「えりすぐり」を確認することで、また自分にとって心地よい小説に出会える可能性が高い。これは、フィルタリング手段を持つ利点として、ある一次コンテンツが消えても、他の優良コンテンツを握っていられるということかもしれない。「優れたフィルタリング手段」という意味はコンテンツの種類によって異なるが、例えば小説というコンテンツについて言えば、自分の好みに近い書評家などを指す。これが先にあげた小飼弾氏だったり。


ニコニコ動画id:kawangoさんが、ご自身の日記で、「およそあらゆる種類のプラットホームは色がつく方向に進化する」と書いています。これは正しいと思うのですが、プラットフォームは特定の色のついたコンテンツを大量に集約させると同時に、それらコンテンツのフィルタリング手段を持たないといずれユーザはそのコンテンツ量に疲弊していくと考えています。そういう意味で、ニコニコ動画は有力なフィルタリング手段を模索中ではないかと考えています。最初はタグ検索が主、そしてフィルタリング手段の模索における運営の苦悩と同時進行で、徐々にトップページがごちゃごちゃし始めてきている…。いっそ、何タイプかのプロの「視聴家(フィルタ人)」を雇って、人力でフィルタリングするのはどうだろうか。タグなどで頑張って自動化、ユーザの選別に任せるのも良いが、ある程度の人力も必要ではないかと考えます。


フィルタリング手段もネット上に増えていき、フィルタリング手段をフィルタリングする手段が現れて…、という入れ子現象が起こっている状態もネット上では見られますね。結局、なにか質量が爆発的に増えると、それをフィルタリングする手段が勃興するし、しないとユーザが疲れるという簡単な帰結ですね。


また、同じような属性のフィルタリング手段(例えば編集者)が集まって、フィルタリング集団(例えば編集会社)が興る、というのも普通に考えられますね。これはフィルタリング手段(編集者)が、フィルタリングされると言う受動的な取捨選択を受ける前に、能動的にフィルタリング手段をユーザ見えに収束させると言えます。ただこの動きは今までの出版社と同じようにも見えます。しかし、大きく異なるのはあくまでその集団が持つ機能はフィルタリング機能のみで、媒体機能は有さない、ということでしょうか。

結局

なんだかんだ言って、フィルタについて主に書いてしまいました。コンテンツについてはあまり書くことはないし、媒体については利便性の面で言えば今後ネットへの移行が進むだろうから、やっぱりあまり書くことが無く。紙媒体は、たけくまメモでも書かれているとおり、芸術面やらコレクターズアイテム的に残るとは考えています。が、利便性などの側面においては生き残る感じがしません。これは紙媒体に限らずレガシー媒体全般において。


そして、冒頭でのid:minesweeper96さんの日記にある「編集者はもう必要ないのか?」という問に対して私は以下のような結論をつけます。

  • 編集者(フィルタリング手段)は必要なのは確か(id:minesweeper96さんと同様の結論)。
  • ただ、お金を儲けようとするのであれば優良な編集者でないと淘汰される。
  • 現状「優良」という定義は、大きな出版社などに属しているというステータスではなくて、個々人の本来の力量・属性と知名度に依存する。
    • 大きな出版社などへの信頼性の揺らぎもあるかもしれない。
    • 優良かどうかは分からないが、知名度で言えばくどいようだが小飼弾氏が例としてあげられる。
  • 属性とは趣向と言ってもいいかもしれない。例えば「恋愛小説のプロ編集者」、「軍事小説のプロ編集者」など、フィルタリング自体に色を付ける方がその道のユーザ達に認識されやすい。
  • 同じような属性の編集者が集まった編集集団の勃興が今後は加速するのではないか。


どうなんでしょうね。子供の相手をしながら書いたので、誤字脱字、まとめきれていない感がしますが…。
(ちなみに私は小飼弾氏のファンではありません。あしからず)